曹操是如何战胜兵力10倍于自己的袁绍?
2021-12-10 玉子家 20177
正文翻译

曹操は、どうやって兵力10倍の袁紹に勝てたのか?

曹操是如何战胜兵力10倍于自己的袁绍?

「天下分け目の決戦」といえば、わが国の関ヶ原の戦い(1600年)が有名だが、そのちょうど1400年前の西暦200年、中国大陸北部でも有名な決戦があった。『三国志』の英雄・曹操が10倍の兵力差を覆して、宿敵・袁紹(えんしょう)を打ち破った官渡(かんと)の戦いである。曹操はいったい、どのようにして勝利できたのか。正史『三国志』をもとに紐解きたい。

说到“分天下的决战”,我国的关原之战(1600年)很有名,而正好在其1400年前的公元200年,中国大陆北部也有著名的决战。这就是《三国志》的英雄曹操颠覆10倍兵力差,打败宿敌袁绍的官渡之战。曹操到底是如何取得胜利的。接下来我将以正史《三国志》为基础进行解读。

後漢の流れを決定づけた「天下分け目の戦い」

决定了后汉走向的“分天下之战”

袁紹は、大陸の河北地方に強大な勢力を誇った名族。対する曹操は当時、河南地方を制して帝(献帝)の擁立にも成功、日の出の勢いだった。黄河の北を治める袁紹、南を治める曹操という二大勢力が、ぶつかり合ったのが「官渡の戦い」である。
両者の兵力には大きな開きがあった。正史『三国志』(魏志)によると、袁紹軍は数10万の兵力から選りすぐった歩兵10万、騎兵1万。一方の曹操軍は1万未満と記されている。およそ10倍の差があったというのだ。曹操軍の数は「もっと多かったのでは?」という異論も早くからあるが、劣勢には違いなかったのだろう。

袁绍是一个在大陆河北地区拥有强大势力的名族。与此相对的曹操在当时成功地控制了河南地区,拥立了皇帝(献帝),呈现出头的势头。治理黄河北面的袁绍,治理南方的曹操这两大势力相互冲突的就是“官渡之战”。
两者的兵力有了很大的差距。据正史《三国志》(魏志)记载,袁绍军从数十万兵力中选拔出步兵10万,骑兵1万。另一方面,曹操军队记载不足1万。据说有大约10倍的差距。虽然早就有关于曹操军队的数量可能不止这些的争论,但肯定是劣势的。

はたして、戦局は数で勝る袁紹軍が序盤から圧倒した。黄河を越えて迫る袁紹軍に対し、曹操は得意の奇襲をしかけて対抗。緒戦の白馬で袁紹軍の武将・顔良(がんりょう)を倒し、延津では文醜(ぶんしゅう)を討ち取った。
それでも兵力差は覆せず、曹操はじりじり後退。一時は確保した延津も守り切れず、官渡まで下がった。ここを突破されれば、南の許都(曹操が保護した献帝がいる都)も危機に陥るという、まさに背水の地であった。
ここでも袁紹は数の利を生かし、東西数十里にわたって陣を布き、少しずつ前進。奇襲も封じられ、曹操は官渡の砦に立て籠もるよりほかに術がなくなった。

而结果是,在战局上,以数量取胜的袁绍军从一开始就压倒了他。面对越过黄河逼近的袁绍军,曹操发起了他擅长的奇袭来对抗。初战在白马打败了袁绍军的武将颜良,在延津讨伐了文丑。
尽管如此,兵力之差仍无法改变,曹操逐渐后退。一时确保下来的延津也守不住了,到官渡就更少了。如果这里也被突破了的话,南方的许都(曹操保护的献帝所在的都城)也会陷入危机,可谓是背水一战。
袁绍在这里也发挥了几分优势,在东西数十里布阵,一点一点地前进。曹操的 奇袭也就被封印了,曹操除了在官渡的城里呆着以外没有其他的术了。

弱気になるも、軍師の助言で好機を待つ

即使胆怯,也要在军师的建议下等待时机

戦いは半年におよび、曹操軍は兵糧が不足する。少数の側が兵糧不足とは意外な現象だが、曹操の領地は相次ぐ戦乱で荒廃しきっていた。この兵糧不足は数年来つづいており、それが兵数の不利につながっていたのかもしれない。さすがの曹操も弱気になって撤退を考え始める。
しかし、軍師・荀彧(じゅんいく)の手紙が彼を思いとどまらせた。
「むかし、劉邦と項羽は対陣し、先に退くことを嫌いました。退いたほうが屈服を余儀なくされるからです。この戦いも対陣して半年になります。今にも変事が起きますから、奇策を用いる時期を逃してはいけません」(荀彧伝)

战争持续了半年,曹操军队的军粮不足。虽然少数人的一边军粮不足是一个意外的现象,但曹操的领地在接二连三的战乱中荒废了。导致军粮不足的这种情况持续了数年,这也许也是兵力少的原因之一。就连曹操也变得懦弱,开始考虑撤退了。
但是,军师荀彧的信让他打消了念头。
“很久很久以前,刘邦、项羽没有人肯先退一步,因为撤退了就会被迫屈服。这场战斗对阵已经半年了。现在也会发生变故,所以不能错过使用奇策的机会。”(荀彧传)
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冒頭に書いた通り、この戦いが「天下分け目」とされる重要なものであったことが、荀彧が発した「是天下之大機也」(武帝紀)という言葉からも推し量れる。
それに従った曹操は、粘り強く対陣を続けた。やがて袁紹軍の輜重隊(しちょうたい/補給部隊)の場所がわかった。敵の参謀が寝返って、情報を知らせに来たのである。側近たちは「策略では?」と疑うが、曹操はみずから5000の騎兵を連れて強行に出る。大ばくちだったが、この一瞬の機を突いた奇襲に1万の敵守備隊は慌てふためいた。

正如开头所写的那样,从荀彧所说的“是天下之大机也”(武帝纪)一话中也可以推测出这场战争是被视为“分天下”的重要一环。
而遵循了他的话的曹操顽强地继续对阵。没多久,曹操军就找到了袁绍军的辎重队(补给部队)。而且袁绍军谋士许攸倒戈,建议曹操轻兵奇袭乌巢,曹操自己带着5000名骑兵强行前往。虽然是一个大赌局,但是在这一瞬间的突袭下,一万兵力的敌军守备队慌了手脚。

曹操は敵将を斬り、兵糧をことごとく焼き払った。袁紹も援軍をさしむけたが間に合わず、動揺が全軍に広がり、寝返りが続出して瓦解。圧倒的不利を覆した曹操の勝利であった。
敗れたとはいえ、なお袁紹軍には広大な領地と多くの兵力があった。しかし、天命が曹操に味方した。袁紹は2年後の202年に病死したのである。官渡の敗戦の影響で、袁紹の領地では反乱が頻発。その鎮圧に手を焼き、神経をすり減らしたものとみえる。曹操は袁紹の残党や河北の諸勢力を5年かけて討伐し、207年には中国大陸の北半分を統一。のちの王朝「魏」の基盤を築くにいたった。

曹操斩断敌将,将军粮全部烧毁。袁绍也派出援军,但为时已晚,动摇蔓延至全军,随之便是瓦解。这就是颠覆了压倒性不利条件的曹操的胜利。
虽然战败了,但袁绍军还是拥有广大的领地和众多的兵力。然而,天命却站在了曹操这边。袁绍在两年后,也就是202年病死了。受官渡战败的影响,袁绍领地多次发生叛乱,也许是在棘手于如何镇压,导致神经紧绷。而曹操用5年时间讨伐了袁绍的余党和河北的诸势力,207年统一了中国大陆的北半边。建立了后来的王朝“魏”的基础。

袁紹の「まさか」の敗因

袁绍“意想不到”的败因

戦後の袁紹陣営からは多くの書簡が発見された。それは袁紹に内通を約束する密書の数々であった。曹操が終始劣勢だったためであろう。中身をみれば誰が裏切ろうとしたか一目瞭然であったが、曹操はそれをすぐに焼き捨てさせた。ホッと胸をなでおろした者は多かったに違いない。
それだけ有利とみられていた袁紹は、なぜ敗戦を喫したのか。曹操軍と同じく、袁紹陣営にも有能な参謀や将軍は何人もいた。とくに参謀が多く、田豊(でんぽう)、沮授(そじゅ)、審配(しんぱい)、郭図(かくと)、許攸(きょゆう)などが代表格だった。袁紹は彼らの意見をよく聞いていたが、名門ゆえのプライドか、次第に好き嫌いが激しくなり諫言に耳を貸さなくなった。とくに田豊や沮授、許攸は袁紹に煙たがられ、遠ざけられている。

战后袁绍阵营发现了许多书信。那些都是与袁绍勾结的许多密书。大概是因为曹操始终处于劣势吧。只要看一下内容,谁背叛了就一目了然,但曹操马上就把它们烧掉了。一定有很多人因此松了一口气。
被认为是有利的袁绍,为什么吃了战败。和曹操军一样,袁绍阵营也有几位很有能力的参谋和将军。特别是参谋很多,田丰、沮授、审配、郭图、许攸等都是代表。袁绍一开始还很好地听取了他们的意见,但也许是由于名门的自负吧,渐渐地就会挑三拣四,不听忠告了。特别是田丰和沮授、许攸被袁绍敬而远之。

また袁紹の息子たちも仲が悪く、一枚岩ではなかった。彼らの派閥はそれぞれに違う意見を唱えて対立した。こうした内部抗争のなか、袁紹に遠ざけられた許攸が曹操に寝返って情報を漏らし、敗北につながったのである。
決して無能ではなかった袁紹だが、ひとえにその強大な組織を統制しきれなかったのだろう。また彼には天運もなかった。あと数年、長く生きていれば再び勢力を立て直し、曹操が敗れていた可能性も充分に考えられたであろう。

袁绍的儿子们也关系不好,没有齐心。他们的派别因为各自提出了不同的意见而对立。在这样的内部斗争中,被袁绍疏远的许攸回到曹操身边泄露了情报,导致了失败。
袁绍并不能称作是无能,但是他无法完全控制那个强大的组织。又没有天命。再过几年,如果袁绍活得比较久的话,再次重整势力,曹操失败的可能性也是有的。

评论翻译
bat*****
誰が裏切ろうとしたのか書簡を見ればわかるけど、見れば処罰しなければならない。
それは自軍の戦力ダウンになるし、処罰しなくても後々の戦いの際に疑心暗鬼になる。
疑心暗鬼になれば、官渡の戦いの袁尚と同じように敗北するかもしれない。
曹操の判断はすごいですね。
すべての書簡を焼き捨てて、なかったことにするという度量が将兵から信頼されて魅力のあるリーダーの証かもしれませんね。
頭痛を発した時には近寄りたくない人ですが…

看了勾结信就知道是谁背叛了,但是看了就要处罚他们。
这就会导致我方的战斗力下降,即使不处罚在以后的战斗中也会变得疑神疑鬼。
如果疑神疑鬼的话,也许会和官渡之战的袁尚一样败北。
曹操的判断很厉害。
把所有的信都烧毁,当作没有发生过,这样的度量也许是被将士信赖的魅力领袖的证明。
虽然他头痛的时候不想让人靠近…

bay*****
乱世の奸雄と言われた曹操。
演義では悪役のように描かれるが、才あるものを使い切る智略と度量を兼ね備えたまさに将たる人物だったのだろう。

被称为乱世奸雄的曹操。
虽然在演义上被描写成反派角色,但他是一个兼具唯才是用的智谋和度量的真正的将领人物吧。

efa*****
官渡の戦いで負けた後袁紹が早く亡くなったのも痛いですね。負けたとはいえ領土を失った訳でもなく、巻き返しはできたはず、曹操は敵に囲まれていましたから、でも袁紹に立て直しできたかな?田豊なんて排除しちゃってるからな…
やっぱり袁紹と曹操では力量がちがうかな

官渡之战输后袁绍的早逝也是个痛点。虽然输了,但也没有失去领土,应该可以卷土重来的,毕竟曹操被敌人包围着,不过袁绍能够做得到东山再起吗?田丰什么的都走掉了…
果然袁绍和曹操的力量不一样啊

out*****
袁紹は猜疑心も強くいざと言う時、決断が出来なかったのでどんなに有利な状況でも曹操には勝てなかったと思う。また袁紹陣営自体、人材は豊富だが色々な意見を言う者が多く、袁紹自身がそれをまとめられなかったのが致命的だった。また袁紹の元部下だった荀彧が曹操側にいたのは大きかった。的確に内情を把握できたのは大きかったと思う。
また、曹操は日本では悪役の部類だが、関羽が自分の元を離れるのを快く送ったり、関中での張魯の振る舞いに感心して許したり、凄い魅力的な人物だと思う。

袁绍猜疑心很强,在关键时刻无法做出决断,所以无论多么有利的情况下都无法战胜曹操。袁绍阵营本身人才丰富,但意见也很丰富,袁绍自身无法总结,这是致命的。另外,袁绍的原部下荀彧在曹操方面的地位也很大。我觉得能够准确地掌握内情是很重要的。
另外,曹操虽然在日本是反派角色,但关羽很快就离开了他,他对张鲁在关中的行为很佩服,我觉得他是一个非常有魅力的人物。

Msion top of the top
三国志演義では曹操はどちらかと言えば悪者として描かれていますが、近年の発見された遺跡や埋蔵品から曹操は高い評価を受けています。
確かにトカゲの尻尾切りのような事もしていますが、裏切り者を再び用いたり孫子の兵法にも精通したバランスの取れた人物のようでした。
曹操が大敗した赤壁の戦いで郭嘉がいたら負けなかったと曹操自ら言ったとされていますが、側近も良い人物が多く人を見る目は確かな人でしたね。

在三国演义中,曹操被认为是坏人,但是近年来发现的遗迹和埋藏品中,曹操受到了很高的评价。
确实也有像蜥蜴的尾巴切掉一样逃跑的事,不过,也是个会重新重用叛徒和精通孙子兵法的平衡人物。
曹操在大败的赤壁之战中,曹操自己说过如果郭嘉在的话就不会输,但身边也有很多优秀的人物,可见很多人的眼光是很可靠的。

KIX********
曹操は当代随一の人材マニア。使えると思えば嫡男を殺した敵でも配下に加えている。謀臣賈詡もその1人。袁紹の配下にも知将・猛将・名臣は数多く、人材面では曹操に劣る物では無かったが、その人材を束ねる能力では曹操の足元にも及ばなかった。ただ、曹操も官渡で袁紹軍を粉砕した物の、一気にその勢力を瓦解させた訳ではなく、袁紹は軍勢を建て直している。袁紹にとって不運だったのはこの後、さあ、これからという時に病死してしまった事。彼の死後、袁譚と袁煕・袁尚の間で骨肉の争いが起こり、これが袁氏の勢力を崩壊させる原因になってしまった。

曹操是当代首屈一指的人才迷。如果觉得能用的话,即使是杀死嫡子的敌人也要招入麾下。谋臣贾诩。袁绍的手下也有很多智将、猛将、名臣,虽然在人才方面不亚于曹操,但在统帅这些人才的能力上,连曹操都比不上。但是,曹操在官渡粉碎了袁绍军,并没有一下子瓦解了他的势力,袁绍正在重建军队。对袁绍来说不幸的是,在这之后,他就病死了。他死后,袁谭和袁熙、袁尚之间发生骨肉之争,这成为袁氏势力崩溃的原因。

ebs*****
子供の頃はほとんどが劉備が主人公のものばかりで、曹操が悪の帝王って思っていましたが、蒼天航路を読み始めてから一気に曹操のファンになりました。
冷静に考えたら曹操って物凄い人物ですよね。
昔の人は、曹操を主人公にしたらあまりにも欠点が少なすぎて面白みが欠けるって思ったのかもしれませんね。

小时候几乎都是以刘备为主人公的,我以为曹操是恶之帝王,但自从开始读苍天航路(日本一篇关于三国的漫画作品)后,一下子成了曹操的粉丝。
冷静地思考一下,曹操真是个了不起的人物啊。
以前的人可能觉得,如果以曹操为主人公的话,缺点太少,缺乏趣味。

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