日本网民讨论:何以为“死”
2022-02-06 dnawzp 14013
正文翻译

人は、何をもって「死んだ」とされるのか。現代社会では、「死の3徴候」に基づいて医師が判断する。「心拍の停止」「自発呼吸の停止」「対光反射の喪失・瞳孔拡大」だ。これらは死を科学的に定義した基準ではなく、「蘇生する可能性がない」との臨床医学の経験則に基づいている。3徴候が一定時間続くと死亡が確認される。

人,到底因为什么条件而被认定是“死亡”的呢?在现代社会,医生是根据“死亡的3种征兆”来进行判断的。即“心跳停止”、“自主呼吸停止”、“丧失对光反射、瞳孔扩大”。这些并不是科学定义死亡的标准,而是根据临床医学的经验法则,即“没有复苏的可能性”。3征兆持续一定时间后确认死亡。  

近年、事件や事故を報じるニュースで、被害者について「心肺停止状態」という言葉が聞かれるようになった。この心肺停止状態と、病院での死亡の確認とはどのようなちがいがあるのだろうか。

近年来,在报道事件和事故的新闻中,关于受害者的“心肺停止状态”这个词越来越多。这种心肺停止的状态,和医院确认的死亡有什么区别呢?

米国のTKと呼ばれる男性は4歳で脳死と診断されたが、2004年に亡くなるまで21年間にわたって生存した。身長は150センチ、体重は60キロとなり、髭が生えるなど第二次性徴も現れた。死後、脳を解剖したところほとんどが溶けて液状化しており、残った脳幹部分も石灰化していた。

美国一名被称为TK的男子在4岁时被诊断为脑死亡,但直到2004年去世为止,存活了21年。身高150厘米,体重60公斤,还长出了胡须等第二性征。死后解剖其脑部,发现几乎全部溶化液化,残存的脑干部分也已钙化。

「脳がそんな状態になっても、TKは成長して生き続けたのです。後に米国は大統領委員会の公式論理の誤りを認めています。脳死者の体に触れれば温もりがあり、脈も取れます。脳死は専門医にしか判断できず、肝心の遺族は死から遠ざけられてしまう。従来の『3徴候』による判断基準で大きな問題はなく、墨守するべきだと考えます」

“即使大脑处于这种状态,TK也会继续成长。之后美国承认了总统委员会的官方逻辑错误。接触脑死者的身体会感到温暖,也会有脉搏。脑死只能由专门医生判断,最重要的遗属会远离“死亡”。一直以来根据《3征候》的判断基准没有大问题,所以应该固守”

评论翻译
wakuwaku
なんかどういう話かよくわからなかったんだけど、脳が液状化して脳幹部分が石灰化しても体は成長するんだから、脳が死んでも体だけ生かし続けるべきっていう話なのか、体だけ生かしても脳が溶けてしまうんだから、生かし続けるのは意味が無いって話なのか、どっちなんだろう.

虽然不太清楚是怎么回事,但是即使大脑液化了,脑干部分石灰化了,身体也会继续成长。所以即使大脑死亡了,只剩下躯体也要让躯体活下去;还是说即使躯体还活着,但是大脑会溶化,继续活下去是没有意义的,到底是哪一边呢?


実際に交通事故にあって脳にダメージを負いました。事故当時のことも4回手術を受けたことも痛みなども何も記憶に残っていません。
自分の自我や意思が全くない状態であのまま火葬されても自身は何も感じていなかったと思います。
今思うとあの状態こそが死んでいる状態なんだなと実感しました。
心臓が動いてるだけというのは自分には全く意味がなく、自我や意思があって初めて自分が生きているといえるもんだなと考えています。
なので脳死=その人の死とおもっています。
心臓が動いてるからまだ生きているというのは周りの人間の感情の話で当人は自我や意思が全くないのですから。

我以前遭遇过交通事故,当时大脑受到了损伤。事故发生时的事情、接受了4次手术的事情、疼痛等什么都不记得了。
即使在完全没有自我意识的状态下就那样被火化,我想自己也不会有任何感觉。
现在想来,那种状态才是真正的死亡状态。只是心脏在跳动,对自己来说完全没有意义,只有有了自我和意识,才能说自己活着。
因此,我认为脑死亡=那个人的死亡。心脏还在跳动,说明还活着,这是周围人的感情,当事人完全没有自我和意识。

**********
「脳死は人の死ではない」として、米国の4歳で脳死と診断された男性が、21年間にわたって生存し、肉体に「成長」と呼ばれる変化が見られたとの例示をしているが・・・。
体温や血圧、免疫など体の機能が一定に保たれてはいないとの定義の下で判定された脳死状態ということは、それらの維持や栄養補給のために、たくさんの管に繋がれていたのではないのか?
だとすると・・・、
それを生命倫理的には“生”とする、ということか?
それは『人間の“生”』なのか?
私は勘弁願いたい。そんなのまっぴらごめんだ。

作为“脑死亡不是人的死”,美国4岁时被诊断为脑死亡的男性,在21年间一直存活着,肉体上出现了被称为“成长”的变化。
在体温、血压、免疫等身体机能没有保持一定的定义下被判定为脑死亡状态,是不是为了维持躯体和补充营养而连接了很多的管子呢?
这样的话…
那就是生命伦理上的“生”这么回事吗?
那就是【人类的“生”】吗?
请饶了我吧。我绝对不想变成那样。

j_h*****
膝靭帯の移植手術を受けた時、執刀時間も3時間以上有するという事で、産まれて初めての全身麻酔という事に。
手術前は、麻酔で混沌としていても、夢くらいは見るだろうとか、睡眠と一緒で時間経過感覚も、それなりに感じるだろうと予想していた。
いざ手術開始で、あっという間に麻酔が効いて、意識が薄れていくまでは、自覚していたが、「終わりましたよ」の掛け声で目覚め、時間さえ何分ともたっていないかくらいのものだった。夢どころでもないくらいの。
「死」もおそらく、これくらいに平坦で、自然と無に帰していくものなのだろうと、考えた。

接受膝盖韧带移植手术时,手术时间长达3个小时以上,这是我出生以来第一次进行全身麻醉。
手术前我猜想,即使麻醉使人变得混沌大概也会做梦吧,和睡眠一样也会有时间流逝的感觉。
但到了真正开始手术时麻醉剂很快就开始生效了,直到意识淡薄为止,我都还有自觉,但是听到“已经结束了”的搭话声时我才醒过来,感觉时间也才没过几分钟,根本和做梦完全不是一回事。
我想,“死”恐怕也会是如此平坦,自然地归于无吧。

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isa*****
人間を人間としてでなく、動物のヒトだと思っていると、脳死は死ではないという論理になるんだろうね。体細胞さえ生きていれば、心なんてどうでも良いという。人の尊厳を無視した意見だと思う。

如果不把人当成人,而是当成动物的人,就会认为脑死亡不是死亡。只要体细胞还活着,“心”之类的都无所谓。我认为这是无视人的尊严的想法。

hak*****
脳が死んでも他の部分が生きていれば、それは生きている、という考えなのでしょうか。
だとすれば、どこまで体が生きていれば「生きている」と言えるのか、という問題になります。
亡くなった人の内臓を臓器移植で他の人に移植したとき、本人は死んでも、臓器は生き続けます。それは「生きている」と言えるのでしょうか。
極端な例だと、1951年にがんで亡くなった人の細胞「HeLa細胞」は今でも生きて増殖していますが、それは本人が「生きている」と言えるのでしょうか。
どこかで線引きをしないと、わけのわからないことになりそうです。

大脑死了,但其他部分还活着,这就是活着的想法吗?那么问题就来了,身体活到什么程度才算是“活着”呢?
通过器官移植将死者的内脏移植给他人时,即使本人死了,器官也会继续存活。那能说是“活着”吗?
举个极端的例子,1951年死于癌症的人的细胞“HeLa细胞”至今还活着并增殖着,但这能说他本人“活着”吗?如果不在某个地方画线的话,就会变得莫名其妙。

yuy
家族が脳死ですと診断された事がありましたが、本人が喜ぶであろう事を耳元で話しかけると
血圧が上がるなど反応を感じました。
決して、この状態で臓器提供などは、
考えられなかった。
脳死は人の死とは、考えられなかったです。

我的家人曾被诊断为脑死亡,但只要我在他耳边说他应该会高兴的事,他就会有血压上升等反应。
在这种状态下捐赠器官是绝对不可能的。
脑死亡并不是人的死亡。

野良猫のやまちゃん
皆さんの「人の死に対する考え方や価値観」などのコメを見て、改めて死生観について考える事ができました。
色々な意見があって議論され…
ここにコメしてる大半は「生と死」に真剣に向き合ってる真面目な人達なんだなぁと思った。

看到大家“对死亡的思考方式和价值观”等,我重新思考了我的生死观。
大家讨论着各种各样的意见…
我想在座的大部分人都是认真面对“生与死”的踏实的人。

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clo*****
コンピューターにたとえるなら電源入れれば作動するがランしないような状態なのだろう。死んではない、、しかしだ。生前に自分の死をどう定義するか書いとく必要があるだろう。生命維持装置を外されたら生存できないというのが生死の分かれ目と思うが、ダースベイダーみたいな半分死にぞこないもいるしね。。

如果用电脑来比喻的话,就是一开机就能启动却无法运行的状态吧。没有死,虽然是这么说。有必要在生前写一写如何定义自己的死。生死的关键是,一旦被取下维持生命的装置就无法生存,但也有像达斯·维达那样半死不活的人。。

rop*****
どんな形でも生きてほしいと思うのが家族だから、脳死でも成長する姿を見れるって家族としては嬉しかったのではないかなと思う。
ただ、医療費などの考えると、負担も大きかったと思うし、難しい問題ですよね。

无论是以何种状态家人都希望他能够活下去,所以即使是脑死亡,能看到他成长的样子,作为家人应该很高兴吧。
但是考虑到医疗费等问题,负担也很大,是个很难的问题。

off*****
もし脳をHDDみたいに交換できるとして、身体だけ自分のものが残っても意識が他人ならそれはもはや俺じゃない。逆に意識が自分で身体が他人になったら、時間はかかるかも知れないが俺だと受け入れるかも知れない。仮に脳以外の身体が全てアンドロイドだったとしてもそう。結局自分が生きてるかどうかは脳次第なんじゃないか?

如果大脑可以像硬盘一样进行交换,只有身体是自己的东西,但意识是别人的话,那就不是我了。相反,如果意识变成了自己,身体变成了别人,也许需要时间,但也许会接受是我。假设除了大脑以外的身体都是智能机器人也是如此。结果自己活不活着不就取决于大脑了吗?

oki*****
TK、growthホルモンは下垂体が死んでてどこから出てたのかな。成長してたのなら普通はGH分泌がないと。視床下部も機能してたんかな。間脳下垂体は生きてたってことかな?となると4歳の脳死判定が厳密には間違ってたんやないのかな。この1例だけで結論を説明するのは不十分やしミスリードかな。
他の人が書いてるように脳死は社会的なコンセンサスが必要で、倫理面だけでなく、医療経済、科学的根拠などいろんな背景を議論すべき。もちろん家族の意向が十分に汲みされるシステムの上で。

脑下垂体死亡后,TK的生长激素是从哪里分泌出来的呢?如果是在成长,一般来说是没有生长激素分泌的。下丘脑也在发挥作用吧。间脑下垂体是活着的吗?这么说来,4岁的脑死判定严格来说应该是错误的吧。仅凭这一个例子就得出结论是不是不太充分或者有误导呢。就像其他人写的那样,脑死亡需要社会的共识,不仅是伦理方面,医疗经济,科学根据等各种背景都应该讨论。当然,这是在充分听取家人意愿的系统上。
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poi*****
一言で脳と言っても部位によって機能が全く異なりますので、どこかが無事なら何らかの働きをしますよね。脳死は脳幹を含めた全機能の喪失を意味しますが、そういう意味でこの記事の例では”まだ生きていた脳の部分があった”んでしょうし、だからこそ脳死は誤りであったとなったのでしょう。
逆に言えば再生医療が進んで脳を移植できるようになったとしても、意識を司る大脳や記憶を司る部位は交換出来ないでしょうし、そこを完全に失ってしまって初めて人としての死と言えるんじゃないでしょうか。

一言以蔽之,大脑各个部位的功能完全不同,如果某个部位完好,就会发挥某种作用。脑死亡意味着包括脑干在内的所有功能的丧失,从这个意义上说,在这篇报道的例子中,“还有部分大脑还活着”,正因为如此,脑死亡才被认为是错误的。反过来说,即使再生医疗取得进展,可以移植大脑,但掌管意识的大脑和掌管记忆的部位是无法交换的,只有完全失去这些部位,才算是人的死亡。

マロン
生物としての死と、人間としての死を区別するのが、脳死なんだろうと思う。
この医師が言う「脳死は死ではない」は、生物としては死んでいないということで、それはそのとおりだし、だからこそ臓器移植も可能になるわけで。
人間としての死を医学的に定義するかどうかは便宜上の話、あるいは高度に政治的な話であって、臓器移植を可能にするために生み出された概念という側面もある。
豚の心臓を人に移植する手術がついに成功したが、他の臓器も移植できるようになれば、脳死患者から移植する必要性はなくなってくる。
さらに再生医療などが進めば、いずれ脳死という概念も不要になると思う。

把作为生物的死亡和作为人的死亡区别开来的,就是脑死亡吧。医生所说的“脑死不是死”,是指作为生物没有死,这是正确的,正因为如此,器官移植也是可能的。
是否从医学上定义作为人的死亡是一个方便的话题,或者是一个高度的政治话题,也有一个侧面是为了使器官移植成为可能而产生的概念。
把猪的心脏移植给人的手术终于成功了,如果其他器官也可以移植的话,从脑死亡患者身上移植的必要性就没有了。
如果再生医疗等进一步推进的话,脑死亡这个概念迟早也会变得不需要了。

kk5*****
人が人間の「生」「死」をどのように認識するかによって変わってくる。
隣にいる親しい人が、心臓は動いているけれど人形のようになってしまったら・・・・・。
隣にいる親しい人が、いつも通りとはいかないがに日常生活などをしていたら。
人間らしい(と個人的には考えている)日常生活などをしているのを「生」とするならば、脳が機能しなくなり寝たきりになるのは「死」なのか。
人によって変わってくるのかもしれないが、何かあった時は選択を迫られる時がある。
その選択が合っていたのか間違っていたのかは人それぞれで、後悔できるのも残された人の特権。

根据人对人的“生”和“死”的认识不同而不同。
如果身边亲近的人,虽然心脏在跳动,但却像人偶一样……
如果身边亲近的人过着与平常不同的日常生活。如果把正常人(我个人认为)的日常生活视为“生”,那么大脑失去功能、卧床不起就是“死”了吗?
也许每个人都不一样,但遇到什么事情的时候,总会有被迫选择的时候。
那个选择是对是错,因人而异,后悔也是被留下的人的特权。

duk*****
仮に頭部を切断してなお心肺機能が失われない状態が維持できたとして、我々はその費用負担を容認するだろうか。
私費ならともかく、公費ならば他の福祉に使いたい。
まあアメリカならば私費なんだろうけど。

假设头部被切断,心肺功能还能维持正常状态,我们能承担这个费用吗?自费倒也罢了,公费的话我想用在其他福利上。不过在美国的话,应该是自费的吧。
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xlm*****
父親がクモ膜下出血で1年間脳死状態の果てに亡くなったけど
倒れてしばらくした段階で、もう魂はここには居ないな、抜け殻だなと不思議と感じた。
当然医師に延命するかどうか訊かれるんだけど、家族で真っ二つに意見が割れてつらかった。
強力に延命をプッシュしたのが母親。普段そんなそぶりは見せなかったけど、深く愛してるんだなと思ったね。

父亲因为蛛网膜下出血,在脑死亡状态1年后去世了。
倒下后过了一段时间,灵魂已经不在这里了,只剩个空壳了,这让我感到不可思议。
当然会被医生问到是否要延长寿命,但是家人之间意见完全不同,很是为难。
极力要求延命的是母亲。虽然平时没有表现出那种样子,但是我觉得母亲是深深地爱着父亲的。

arc*****
どんな状態であっても生きていて欲しい、と願う人は意外と多い。個人的には、願う人が居て生命維持ができる限りは延命すべきだと思う。
でも、延命するかしないかを自分以外の人に判断委ねるのは、委ねられた人からすれば重くのしかかるだろうし、終わらせる判断ができるのも「人」としての優しさがあればこそ、って場合も多々ある。
裏返せば、「何をもって命とするか」でもあるのかな。もう一回鋼錬読み直そう。

意外的是,很多人都希望自己无论处于什么样的状态都能活下去。我个人认为,只要有希望的人存在,就应该尽可能地延长生命。
但是,把是否延长生命的事情交给自己以外的人来判断,从被委托的人的角度来看,会感到很沉重,能够做出结束生命的判断,也正是因为有作为“人”的温柔,这样的情况很多。
反过来说,也是“何以为生”吧。我还是再读一遍钢炼整理一下吧。

akj*****
手術の麻酔から目覚めた時のタイムスリップ感を味わったが、眠っていたという記憶すら無い為、自分がこの世に存在していたとは到底思えず、まさに「無」の状態を経験したが、これが「死」の状態だと確信した。意識が戻った為生きて帰って来られたが、戻って来られなかった時が「死」だと思う。

虽然体验了从手术的麻醉中醒来时的穿越感,但是因为连睡着的记忆都没有,所以无论如何也不认为自己存在于这个世界上,确实经历了“无”的状态,我确信这就是“死”的状态。因为意识恢复了,所以活着回来了,但是不能回来的时候,我认为这就是“死”。

hik*****
本来、脳死は人の死であるが、脳の重要システムである脳幹がダメージを受け、システムが喪失すれば死亡宣告を受けなければなりません。
けど、そこまで理解する人がいないと同時に、脳幹のシステムとはと言うキーワードを理解すら出来ない事も多い。
また、システムは機械や通信を言いがちだが、人間にも生命を維持させるシステムがある事を理解しなければならない。
システムとは、機能という英単語で人間の臓器や運動器にもシステムがある。

本来,脑死亡是人的死亡,如果大脑的重要系统脑干受到损害,丧失了系统,就必须宣告死亡。
但是,在没有理解到那种程度的人的同时,很多时候连脑干系统这个关键词都理解不了。
另外,我虽然们常说系统是机器和通信,但我们必须明白人类也有维持生命的系统。
所谓系统,就是机能的英语单词,人的器官和运动器也有系统。

Tex*****
第二次性徴が発現したり、身体の成長がみられたりしたってことは、下垂体その他の内分泌器官がしっかり働いてたってことだろう。
なら、脳が液状化したのはそれらが働いたあとってことにならないか?
つまりTKのケースこそ「脳死、即、脳機能の全面的な廃絶」ではないことの証明なんじゃないの?
詳しい方、解説をお願いします。

第二性征的出现,身体的成长,都说明脑下垂体等内分泌器官在正常工作吧。那么,大脑液化不就是在它们工作之后吗?也就是说,TK的案例正是反证“脑死亡后,脑功能立即全面停止”的证据不是吗?
希望能详细解说。

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