俄罗斯广袤的国土可以说是其“软肋”所在,即使与西方政治隔绝,但依然保持联系
2025-02-02 阿煌看什么 5186
正文翻译

ロシアを数百年悩ませる地形の呪い
強い国は往々にして、元々強いのではなく、元来の弱さを埋め合わせるために強くならざるを得ないものです。ロシアもそのような「弱点を克服して成り上がった大国」です。戦後アメリカで最もロシア事情に精通し、後にアメリカの対ソ政策を主導したジョージ・ケナンは、1946年に、ロシアの行動はその地理的な脆弱さに由来すると指摘しました。
「国際問題に関するクレムリンの神経過敏症的な見解の底には、ロシアの伝統的、本能的な不安感がある。元来これは、獰猛な遊牧民と隣合わせに、広大なむき出しの平野に住もうとした、平和な農耕民の不安であった。その上に加わったのが、ロシアが経済的に進んだ西方と接触するようになったとき、その地域のより有能で、より強力で、より高度に組織された社会に対する恐怖だった。」
ケナンはその翌年にも、ロシアの拡張主義が平野に起因していると述べました。
「ロシアは広大で無防備な平野で、何世紀にもわたって繰り広げられた遊牧民同士の不明瞭な戦いから教訓を得ている……アメリカの対ソ政策の主たる要素は、ソ連の膨張傾向に対する長期の、辛抱強い、しかも確固として注意深い封じ込めでなければならない」

俄罗斯的地形诅咒困扰了它数百年。强大的国家往往并非天生强大,而是因为必须弥补其固有的弱点,才变得强大。俄罗斯就是这样一个“克服弱点而崛起的大国”。战后美国最了解俄罗斯事务并主导美国对苏政策的乔治·凯南在1946年指出,俄罗斯的行为源于其地理上的脆弱性。
“克里姆林宫对国际问题的神经质看法,底子里是俄罗斯传统的、本能的不安全感。这种不安感最初源于一个和平的农耕民族生活在广阔无遮掩的平原上,与凶猛的游牧民族为邻。当俄罗斯开始与经济发达的西方接触时,这种不安感又加剧为对那个地区更有能力、更强大、更高度组织化的社会的恐惧。”
凯南次年再次指出,俄罗斯的扩张主义源于平原。“俄罗斯从几个世纪以来在广阔无防备的平原上展开的游牧民族模糊战争中吸取了教训…美国对苏联政策的主要元素必须是长期的、耐心的、但又坚定而谨慎的遏制苏联的扩张倾向。”

ロシアは平坦な地形に国の命運を左右されてきました。ロシアの始まりは9世紀から13世紀にかけて、今のウクライナからロシアの辺りにあったキエフ・ルーシという国です。この国は一時ヨーロッパ最大の版図を誇るほど栄えましたが、13世紀にモンゴル帝国の侵攻を受けて滅びました。モンゴル帝国が5300キロ離れたキエフを攻撃できた理由は、ユーラシア大陸を貫く広大な平野にありました。モンゴル軍の騎馬部隊は、この天然の高速道路を遥々縦断してきたのです。
国をなくしたロシア人たちは、北の森林地帯に逃げ込みました。ここも平地で安全ではないにしても、辛うじてモンゴル軍との直接的な戦闘は避けられました。モンゴル軍の武器である馬と弓は、森の中では木に引っかかって使えなかったからです。

俄罗斯的命运一直受到其平坦地形的影响。俄罗斯的开端可以追溯到9世纪到13世纪间,位于今乌克兰和俄罗斯一带的基辅罗斯。这一国家曾一度以其广阔的版图而成为欧洲最繁荣的国家之一,但在13世纪却因蒙古帝国的入侵而灭亡。蒙古帝国之所以能攻击远在5300公里之外的基辅,是因为存在横贯欧亚大陆的广袤平原。蒙古军队的骑兵正是通过这条天然的“高速公路”长途跋涉而来。
失去国家的俄罗斯人逃往北部的森林地区。虽然这里也是平地,并非绝对安全,但勉强能够避免与蒙古军队的直接战斗。这是因为蒙古军队的武器——马匹和弓箭,在森林中容易被树木阻碍而无法施展。

モンゴル帝国の支配を抜け出し、東へ
こうしてロシア人たちは現在のモスクワ辺りに落ち着いて、200年にわたってモンゴル帝国に服従することとなりました。しかし、ロシア人たちはこの支配体制の下で徐々に勢力を増していき、1480年には服従を正式に拒否。ようやくモンゴル帝国の支配を抜け出したのです。
モンゴル帝国の支配を破ったロシア人たちは、今度は東へ急速に領土を拡張していきました。元々ウラル山脈の東側には人が多く住んでいなかった上に、銃を得たロシア人とコサック(ロシア辺境地の戦士集団)は、先住民の抵抗に見舞われても比較的容易に制圧することができました。
こうしてロシアの領土は、1700年までにユーラシア大陸の東端に到達。すでにこの頃には、世界最大の面積を誇っていました。しかし、これほど広い領土を獲得してもロシアは依然として地理の呪いからは解放されませんでした。その原因は、西にありました。ロシアの西は依然として開放されていて、西の敵勢力から守ってくれる自然的障壁が何もなかったからです。

蒙古帝国的统治结束后,俄罗斯人向东扩展
在蒙古帝国统治下,俄罗斯人逐渐壮大。1480年,他们正式拒绝服从蒙古帝国,终于摆脱了其统治。摆脱蒙古帝国的控制后,俄罗斯人迅速向东扩展。乌拉尔山脉以东原本人口稀少,加上掌握了火器的俄罗斯人和哥萨克人(俄罗斯边疆的战士群体),即使遇到土著居民的抵抗,也能相对轻松地加以制压。
于是,到1700年,俄罗斯的领土已经扩展到欧亚大陆的东端,成为当时世界上面积最大的国家。然而,即便拥有如此辽阔的领土,俄罗斯依旧没有摆脱地理位置带来的困扰。这是因为俄罗斯西部依然开放,没有任何自然屏障来保护他们免受西方敌对势力的侵袭。

ロシアを今日まで悩ませてきた諸悪の根源は、北ヨーロッパ平野です。この平野はフランスのピレネー山脈からロシアのウラル山脈まで広がり、その内側にフランス、ベルギー、オランダ、ドイツ、デンマーク、ポーランド、リトアニア、ラトビア、エストニア、フィンランド、ベラルーシ、ウクライナ、モルドバ、ルーマニア、ブルガリア、カザフスタンと多数の国を含有する、非常に広い平野です。過去500年の間にロシアを本格的に脅かした敵勢力は、すべてこの北ヨーロッパ平野からやってきました。
1605年にはポーランド、1707年にはスウェーデン、1812年にはフランス、1914年と1941年にはドイツが、この平野から来襲してロシアを滅亡寸前まで追い詰めました。ここの敵を誘い込む力は凄まじく、1812年から1941年までの侵攻をすべて数えると、ロシアはこの平野だけで33年に1回の頻度で侵攻を受けたことになります(1853年のクリミア戦争を含めます)。

俄罗斯至今所面临的诸多问题根源在于北欧平原。这个平原从法国的比利牛斯山脉一直延伸到俄罗斯的乌拉尔山脉,涵盖了法国、比利时、荷兰、德国、丹麦、波兰、立陶宛、拉脱维亚、爱沙尼亚、芬兰、白俄罗斯、乌克兰、摩尔多瓦、罗马尼亚、保加利亚和哈萨克斯坦等多个国家,是一个非常广阔的平原。在过去的500年中,所有对俄罗斯构成重大威胁的敌对势力都来自这个北欧平原。
1605年,波兰从此而来;1707年,瑞典亦是如此;1812年,法国的威胁也是从这里发起;1914年和1941年,德国两次从这个平原进攻,几乎将俄罗斯逼至毁灭边缘。这个平原对敌军的吸引力惊人,从1812年到1941年的入侵统计来看,俄罗斯平均每33年就遭受一次来自这个平原的入侵(包括1853年的克里米亚战争)。

ロシアは弱いから広い
障害物が何もない平野で、敵の侵攻を防ぐにはどうすれば良いか。ここで、ここで、第8代ロシア皇帝エカチェリーナ二世の格言が参考になります。
国境を守る術はない。それを広げる以外には。
平野は攻撃が有利の地形です。ここで防御を有利にするには、少しでも外敵との距離を確保しなければなりません。そこで、ロシアは東方の征服が概ね完了した18世紀以降、西に目を向け、100年かけてウクライナからポーランド、バルト三国、フィンランドまでの一帯を征服、西の戦略縦深を深める大征服事業を敢行しました。
こうした一連の領土拡大は、決して無駄ではありませんでした。1812年にナポレオンのフランス軍がロシアに侵攻した際、ロシア軍は直接の戦闘を意図的に避けつつ後退し、フランス軍の補給線を延ばし切りました。その後、フランス軍がモスクワに到達したとき、ロシア軍はさらにウラル山脈の奥に後退しており、フランス軍はロシア軍の帰りを待っている間に厳しい寒さと食糧不足に苦しんで撤退を余儀なくされました。

俄罗斯因为地广人稀而显得脆弱。在一望无际的平原上,如何防止敌人的入侵呢?在这里,第八代俄罗斯皇帝叶卡捷琳娜二世的一句格言可以作为参考:国境无法守护,唯有扩张。平原地形对进攻有利,要在防御中取得优势,就必须尽可能与外敌保持距离。因此,自18世纪东部征服大致完成后,俄罗斯将目光转向西部,经过100年征服了从乌克兰到波兰、波罗的海三国和芬兰的一大片地区,从而在西部建立了战略纵深。
这一系列的领土扩张绝非徒劳。1812年拿破仑的法军入侵俄罗斯时,俄军有意避开直接战斗,并不断后撤,拉长法军的补给线。随后,当法军抵达莫斯科时,俄军已进一步撤至乌拉尔山脉深处,结果法军在等待俄军回归的过程中,被严寒和粮食短缺所困,最终被迫撤退。

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1941年には、ドイツ軍がナポレオンと同じ罠にはまりました。ヒトラーは、「ナポレオンと同じ轍は踏むまい」と規格外の大軍団を動員して、冬が来る前にソ連との戦争に決着をつけるつもりでした。しかし、その望みは叶わず、延びすぎた補給線、冬将軍の影響を受け、背後に待ち構えるソ連軍に撃退されました。
2つの大戦争は、ロシア人の心に強烈な恐怖心を植え付けました。最終的には勝ったとはいえ、フランスとの戦いでモスクワが火の海に包まれ、ドイツとの戦いでは2660万人、当時の全人口の13.5%に匹敵する犠牲者を出しました。

1941年,德军重蹈了拿破仑的覆辙。希特勒为了避免重蹈拿破仑的失败,动员了一支规模空前的军队,试图在冬季来临之前结束与苏联的战争。然而,这一愿望未能实现。由于过长的补给线和“将军冬”的影响,他们被苏联军队击退。两次大战在俄罗斯人民心中留下了深刻的恐惧。尽管最终获得胜利,但与法国的战争中,莫斯科曾被大火吞噬,而与德国的战争则造成了2660万人牺牲,相当于当时总人口的13.5%。

ロシアの西の世界への神経質な態度の源泉には、この平坦で外国軍の侵入を容易に許してしまう地理的繫がりがあります。
これは、そもそも国境が存在しない日本との大きな違いです。日本では、全国どこの海岸に立とうと目の前に海以外のものはなく、その向こうに別の国があることを体感しにくいものです。
ロシアは違います。ロシアとその西の国々との国境には自然的障壁が存在せず、あっても川か、薄い柵だけです。立つ箇所によっては、かかとにロシア、つま先に別の国があります。ロシアと西の世界は政治的に隔てられていても、地理的には繫がっています。
というより、地理的に繫がっているからこそ政治的な隔たりを求める、といった方が正しいでしょう。ロシアは強いから広いのではなく、弱いから広くならざるを得ないのです。ロシアの広さは、ロシアが抱く大きな恐怖心そのものなのです。

俄罗斯对西方世界的神经质态度源于这种平坦的地理连接,这种连接使得外国军队的入侵变得容易。这与日本有很大的不同,因为日本与其他国家之间并没有直接的陆地边界。在日本,无论站在哪片海岸上,面前除了海洋什么也没有,很难直接感受到海的另一边是另一个国家。
俄罗斯的情况则不同。俄罗斯与其西部国家之间的边界缺乏自然障碍,即便有,也只是河流或薄薄的栅栏。在某些地方,脚跟在俄罗斯,脚尖就已经在另一个国家了。尽管俄罗斯与西方在政治上有所隔阂,但在地理上却是相连的。更准确地说,正因为地理上相连,俄罗斯才寻求政治上的隔离。
俄罗斯的版图之大,并非因为强大,而是因为脆弱才不得不扩张。俄罗斯的广袤反映了其内心深处的巨大恐惧。

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